めありずむ

不妊治療・育児・Mr.Children・手帳・雑記ブログ

私達は「権利の主張」を誤解しているかもしれない

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不妊治療の保険適用に反対する意見の中で、自己責任論と共に気になっているのが、「権利」に対する捉え方がちょっとズレている人が多いのではないか、という点だ。

「権利行使には義務が伴う」というフレーズへの誤解

日本人は何かと権利の主張が下手だと言われてきた。下手というか、主張しないのだ。

そして、声を上げる者は何かと批判の的になってきた。

その風土は今も続いていると思う。

なぜ日本人は権利を主張しないのか、という問いを紐解いてみると、真っ先に想起するのは「権利の行使するには義務を果たさなければ」とか「権利の対義語は義務」といった言葉だと思う。

私もどこかでそう習った記憶がある。でもこれは、とんでもない刷り込みらしい。

おそらくだけど、「国民の権利」と「国民の義務」を同じタイミングで習うからではないかと思うが。

よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。権利行使を義務の対価と考えるのは、(近代の自由主義的な考え方の下では)正しくない。

例えば、かつては日本にも一定額以上納税をしないと選挙権が無かったという暗い時代があったわけだが、「権利を義務の対価」と考えると、このような考え方を肯定することになりかねない。

「権利行使には義務が伴う」というのは、もっと単純な話である。例えば、僕には選挙権がある。投票所に行って、国政の代表者を決めるための投票を行う「権利」があるわけである。

そして、国には、僕(をはじめとする国民)が選挙権を行使できるよう、選挙を法律に基づいて実施する「義務」がある。「権利行使には義務が伴う」というのは、この場合、僕が権利を行使できるように、国家が義務を負うということである。 

脱社畜ブログ「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解 より一部引用

これは当時結構バズったブログ記事で、私も記憶している。

正直、目から鱗だった。

私も、何らかの義務を果たしていない人が権利を主張するのはお門違いなのかと思っていた。

しかし、権利というのは人間がもともと持っているもので、何かを行うことと引き換えに手に入れるものではない。

「Rights」の訳が「権利」になった弊害

そもそも、「権利」という概念も「自己責任」と同様に欧米から輸入された言葉であり概念だ。おそらく風土的に馴染みがなかったのだろう。

しかも権利は英語で言えば「Rights」であり、そこには「正しい」という意味が含まれている。

正しくあるために主張するのがRightsであり、主張するために何らかの義務が発生するようなものではないのだ。

「権利」という漢字からは、「権力の権」だし「利益の利」だし、なんというか、自分の利益のために主張するみたいな印象を受ける気がする。

そもそも日本人が持ち合わせていなかった概念に、利己的な印象を与える和訳をつけてしまったことにより、さらに古来からの「上の人が絶対に偉い」という家長制度的な風土が相まって、自分より立場が強い者に主張をするには義務を果たさなければならない、という意味不明な価値観が浸透していったのではなかろうか。

私達が、国民として、市民として、社員として、患者として持つその「権利」は「義務」とセットなどという代物ではなく、それ自体が尊重されるべき人権として元来保有しているものである。

参考:【憲法を考える】国民の権利は主張し続けないと失われかねない

生殖に関する"Reproductive Rights"も人権のひとつ

ご存知の方も多いとは思うが、世の中には「リプロダクティブ ライツ」という人権の一部を形成する概念が存在している。

生殖に関連する人間の権利は、ほとんどがここで網羅される。

リプロダクティブ・ヘルスとは、人間の生殖システムおよびその機能と活動過程のすべての側面において、単に疾病、障害がないというばかりでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることを指す。したがって、リプロダクティブ・ライツは、人々が安全で満ち足りた性生活を営むことができ、生殖能力を持ち、子どもを持つか持たないか、いつ持つか、何人持つかを決める自由(権利)をもつことを意味する。1994年、カイロ国際人口・開発会議で採択された文章に基づいている。
生殖年齢にある男女のみならず、思春期以後、生涯にわたる性と生殖に関する健康を意味し、子どもを持たないライフスタイルを選択する人々を含めた、すべての個人に保障されるべき健康概念である。具体的には、思春期保健、生殖年齢にあるカップルを対象とする家族計画と母子保健、人工妊娠中絶、妊産婦の健康、HIV/エイズを含む性感染症、不妊、ジェンダーに基づく暴力等を含む。
リプロダクティブ・ライツとは、性と生殖に関する健康を享受する権利である。具体的には、すべてのカップルと個人が、自分たちの子どもの数、出産間隔、出産する時期を自由にかつ責任をもって決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという権利。また、差別、強制、暴力を受けることなく、生殖に関する決定を行える権利も含まれるさらに、女性が安全に妊娠・出産を享受でき、またカップルが健康な子どもを持てる最善の機会を得られるよう適切なヘルスケア・サービスを利用できる権利が含まれる2004年JICA開発課題に対する効果的アプローチ・リプロダクティブヘルス「第1章 リプロダクティブヘルスの概況」より一部引用

要は生殖医療が必要な場合に、誰もがそれを享受する権利を持っているという考え方は世界的には自明であり、だからこそ保険適用によって他の疾病と同様に公平に治療を受けられる権利を国民に提供している先進国が多いのであろう。

フランスなど、LGBTなどが子どもを持つ権利もしっかり保障されている国もある。

もちろん、国家運営においてまた個人が経済合理性の観点から年齢や回数に制限を設けている事例が多いが、日本のように「疾病ではない」などと苦しい言い分を押し通している国は珍しい。

単純に日本はこういった「権利」に対する意識や対応が欧米に比べると何十年も遅れているというだけのことじゃないかと感じている。

権利と義務の呪縛から卒業しよう

「権利と義務」に関して、不妊治療でも同じような意見を目にすることがある。

「適齢期に計画的に結婚して妊活をしてる若い人なら保険適用してもいいけど、晩婚の人に保険適用するのは反対だ」というような意見だ。

これも前述の考え方を当てはめればおそらく、可能性が高いうちに子どもを作る努力するという義務を負っているものだけが保険適用を主張する権利を得られるという概念から来ているものであろう。

そうではないのだ。

疾病を抱えていても、子どもを望む人は必要な治療を受けられる権利がある。

何らかの病気にかかった人が、健やかに生きるために保険診療で少ない経済負担で医療を受けられる権利があるように、何らかの原因で自然妊娠が難しい人も、生殖医療によって子どもを授かる権利があるのだ。

だいたい、何でも患者の責任のように扱われ、実際に不妊治療を行っている医療提供側の諸々の行いが検証されないのはなぜなのか?

とはいえ誰でもどんな条件でも保険適用すべきとは思わない。

リソースが無限にあるわけではないので、保険診療ならば合理性の追求は避けられない。よって、誰でも何歳でもOKというわけではなく、助成金と同様に年齢制限や回数制限を設けるべき、と個人的には考えている。

だから同時に、里子・養子や卵子・精子の提供といった別のステージへのアクセスも広く用意されるべきだと思うのだ。

私も日本生まれ日本育ちであり、日本人的な感性は正直捨てきれない。

そして、権利の主張が下手なのは教育や単一民族国家ならではの環境が影響していることも理解しているつもりだ。

いくら言っても身体に染み付いちゃっていて、なかなか意識を変えられないということなのかもしれない。

でも、さすがにそろそろそんな呪縛から卒業しても良いのでは?