めありずむ

不妊治療・育児・Mr.Children・手帳・雑記ブログ

「自己責任」という言葉の使い方を間違っている方へ

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不妊治療が必要になったのは自己責任だというようなトンデモ発言が、SNSではよく起こる。不妊治療に限らず、今の日本の「闇」の象徴のように思えてならないこの「自己責任」思想について一言申したい。

「自己責任」は元々は経済用語

経済状況が悪くなったり、社会的な不安が生じると必ず出てくる「自己責任論」。

今でこそ軽々しく「自己責任」という言葉を使う人は多いが、これっていつどこから生まれた言葉なのか、ずっと疑問だった。

調べてみるとどうやら諸説あるようだが、「自己責任」という言葉が日本で使われ始めたのは主に1980年代後半で、バブル経済時代の規制緩和の中でリスクのある金融商品に投資する消費者に対し「自己責任が求められる」といった使われ方をしていたらしい。(2018年10月28日付毎日新聞、「<自己責任>とは何か」の著書がある桜井哲夫氏の解説として)

つまり元来、「自己責任」という言葉は、「自分の利益のために自分で決定した場合には、その結果生じる不利益も引き受けなければならない」ということであって、「自分の身に起こることはすべて自分のせいであって誰も助けなくてよい」という意味ではないのだ。

これは英語で言えばOwn Riskということであり、自由主義の責任文化を前提とした欧米ではごく当たり前の話である。それがなぜか、元来の意味とはかけ離れためちゃくちゃ間違った解釈が日本中に蔓延してしまっているのが実態だ。

紛争地域の人質事件で「自己責任論」が一人歩き

この言葉の使われ方を決定付けたのが、おそらく2004年にイラク戦争の最中に起きた人質事件であろう。

「目的や理由が何であるにせよ、退避勧告が出ている地域に行くやつが悪い、その上帰国せずイラクに残りたいだなんて、そんな国民を助ける必要も身代金を支払う必要もない」というのが当時の自己責任論だった。

いや、落ち着け。この問題で悪いのはどう考えても民間人を誘拐した武装勢力である。立派な犯罪だ。

理由の如何(いかん)を問わず、国は自国民の安全や保護に責任を持つはずである。

議論のすり替えもいいところだが、日本では与党自民党を中心にありとあらゆる政治家から国民までがこぞって「自己責任論」を唱え、擁護する人は限定的だったように記憶している。

それに反して当時のアメリカ側の対応は真逆であった。

「日本では、人質になった人は自分の行動に責任を持つべきだと言う人がいるが」と聞かれたパウエル長官は、これに反論して「誰も危険を冒さなければ私たちは前進しない。彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ。私たちは『あなたは危険を冒した、あなたのせいだ』とは言えない。彼らを安全に取り戻すためにできる、あらゆることをする義務がある。」と述べた。

2004年4月20日付け 朝日新聞

そもそもなんでイラク戦争してんだよ、とかいう話はさておき、これが日本の政治家とアメリカの政治家の違いだ。

日本社会の異常性に、お気づきいただけただろうか? 

「自己責任論」が孕む重大な危険性

このイラク人質事件をきっかけに、「自己責任」という言葉が蔓延したと思う。言葉の使われ方はいつの間にか意味を変え、「不幸なことはその人の責任だから仕方がないだろう」という弱者を切り捨てる思想の原動になった。

信じられないような自己責任論も聞こえてくることがある。

  • 貧困家庭は給与の高い仕事をできないやつが悪いそんなの知ったこっちゃない
  • 働かずに生活保護を受給するようなやつが贅沢するなもっと金額を減らせ
  • 人工透析が必要になったのは糖尿病を治さなかったやつが悪い年間数百万円自己負担にしろ払えないなら死なせてしまえ
  • 派遣切りだって騒ぐけど正社員になるよう努力しなかったやつが悪い
  • 障がい児の可能性も理解して産んだのだから社会に文句は言えないだろう
  • 性犯罪に合うような服装で歩いている女が悪い
  • 自然に産む能力がないのは本人のせいだし不妊治療は自己負担であたりまえ
  • 妊娠・出産は自分が望んだことなんだから仕事と両立して当然

自己責任論は無責任社会の裏返しだ。傷つく者を、弱者を切り捨てる社会の典型だ。

ここまで書けばこの「自己責任」という発想の危険性は伝わっていると思うが、それでも自分だってこんな逆境から這い上がったんだから「努力が足りない」だの「できるのにやらなかった」だの思う人はいるだろう。

いやぁ、おめでとうございます、努力ではどうにもできないことをまだ経験したことがない幸運に恵まれた方なんですね。

しかし、この考えを振りかざすことを断固として許してはいけない。この思想はあまりに危険だ。

生きている人は誰もが、ある日突然に、自分や、家族や、大切な人が社会的弱者になる可能性がある。

交通事故に遭ってしまうかもしれないし、犯罪に巻き込まれるかもしれないし、会社をクビになるかもしれないし、病気で一生寝たきりになるかもしれない。

自己責任論を許容する社会では、過去にあなたが持った「自己責任」という思想が、そのままあなたに突き刺さるのだ。

日本に蔓延しているこの感覚を、今すぐ、過去のものとして葬り去るべきだ。さもなければ、日本はいろんな人が安心して暮らしていける社会ではなくなってしまう。

頑張っても報われない人を応援する社会

自己責任論につけて、ぜひ触れたいと思っていたのが、あの上野千鶴子さんの平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 である。

この文章の本質をフェミニズムがどうのと嫌悪して理解しようとしない方は、おそらく自己責任論者だろうが、もう一度冷静に読んでほしい。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

上野千鶴子氏:平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 より一部抜粋

なにも弱者のために犠牲になれという話ではない。

まだ報われていない人にも、ちゃんと手を差し伸べられる社会思想を個人が持てることが、スタートラインではないか。

最近はこの「自己責任論」に警鐘を鳴らす論調も増えてきてはいるが、見ているとまだまだ「弱者の立場になったことのある方、その周囲にいる方」が圧倒的に多いように感じる。

不妊治療に関しても本人の責任とは限らない

自己責任だという方はご存知ないかもしれないが、不妊の原因は十分な精子や作られなかったり、卵管が詰まっていたり、ピックアップ障害だったり、必要なホルモンが十分に分泌されなかったり、生殖だけに影響する遺伝子構造に異常があったり、生殖機能に関わる何らかの異常や障害が起こっていることにある。

不妊症自体は生殖機能の病気なのだ。さらに言えば、年齢に関わらず本人が悪いなんてことはほとんどのケースではありえない。

もちろん年齢を重ねれば妊娠がより難しくなることは事実だが、全員が望んだ時期に結婚するなり相手がいて、子どもを持てる環境や体調にあるとは限らないからだ。

他人が個々に抱える様々な事情など知らないなずなのに、自分が悪いなどと決めつけられる神経の方が理解に苦しむ。あなたの見えている世界が、世の中のすべてではないのだ。

よって、不妊に関して自己責任を持ち出すのもまた論外である。

努力でなんともならない世界があることを、忘れてはいけない。