第1回では不妊治療をなぜ保険適用にすべきかとその医療費を考えました。今回は、その必要医療費である最大2兆円をどう捻出するのか?という問題について考えてみたいと思います。
※ 実際は2兆円という数字は現状の医療機関のキャパシティを考慮するとありえませんので、1兆円程度が限界点ではないかとは思います。
正直なところ、生殖補助医療の財源を現状の医療費の枠で捻出すべきなのかというと、必ずしもそうではないと考えています。
医療といえども今まで国が放置してきたりプロダクティブヘルス・ライツという権利に対する政策でもありますし、現状の助成制度(年間400億円弱)からの一部置き換えという考え方も成り立つからです。
ですが、今回はあえて医療費という枠組みの中に縛って考えてみたいと思います。
第2回:財政難の中で不妊治療の財源をどう確保するのか?
- 高齢社会と日本の医療費の内訳
- 40兆円の医療費はどこで使われているのか?
- なぜ高齢期の医療費が突出するのか?
- 今医療現場で起こっていること
- なにが「幸せな最期」なのか?
- 高齢期の過度な医療費を見直せば、7兆円は削減できるのでは?
- おわりに
高齢社会と日本の医療費の内訳
高齢社会は「人間の理想的な」社会構造である
医療費を語る上で切り離せない「高齢社会」ですが、この言葉には常に「暗い」「ネガティブ」な印象がつきものだと思います。まずはこの認識を改めたいと思います。これは経済産業省の江崎氏が講演等でよくお話をされている話題ですので、抜粋してご紹介します。
生物学的な人間の寿命は120歳であると言われているますが、これは体内のあらゆる機能を支えるために必要な細胞分裂が止まるタイミングを指しています。
経験則的にも、旧約聖書(第6章)には「神は人間の寿命を120と定めた」との記述がありますし、日本人が60歳で「還暦」を祝うのは、文字通り人間の暦を1巡して次の暦に入ることを祝うものと言われています。つまり120歳の半分で次のサイクルに入るよ、ということを表していると考えられます。
この人間が病気なく健康に生きる時の寿命は120年であるという前提で人口構造を考えてみると、実は2020年以降の人口構造(65歳以上の人が多くを占める)は成熟・安定した人間社会の、ある意味理想の姿と言うことができます。
30年前の人口構造がひし形だったのは、1巡目で亡くなる人がとても多かった、寿命まで生きられなかった時代、ということなのであって、それを理想と考えるのは早合点ですし、高齢社会は諸悪の根源、という考え方はちょっと違うかなと思うわけです。そして、これからもまだ平均寿命は延び続けるかもしれないのです。
40兆円の医療費はどこで使われているのか?
問題は、高齢化そのものではなく、高齢社会における医療費の使われ方です。日本の医療費40兆円(これは自己負担を含めるため医療給付金は約36兆円)の使われ方を年齢分布で示したのがこちらのグラフです。70歳くらいから急激に医療費が上がり、90歳以上でも金額が伸び続けてるんですね。(グラフの値が黄色になっている部分)
ちょっと違和感ありませんか?
資料:厚労省「医療保険に関する基礎資料-平成26年度の医療費等の状況」
医療費の中で高額なものというのは、心臓や脳の高度な手術や人工透析のような医療機器を使うもの、抗がん剤などで、要は生きるか死ぬかの分岐のような治療です。これらは「疾病を治療しその後の人生をよりよく生きるため」の手段です。
しかし、このような高額な治療を、それによってほとんど寿命が延びない85歳、90歳の高齢者に施しているのが現実なのです。江崎氏が医療関係者の話として仰っていた「今の日本人は人生最後の3日間で生涯医療費の3割を使っているそうだ」という言葉はあまりに衝撃的でした。
(これは実際にはある大学病院のデータから分かった話とのことですが、この病院以外の高度急性期病院でも同じだろうという前提に立たれていると解釈しています)
もう一度言います。現在の平均寿命から考えて人生85年だとして、3万日余りのうちの最後のたった数日で1/3の医療費を使っているのです。裏を返せば、その1/3もの医療費を費やしても効果がない、結果的に生きられていないという事です。(超元気な85歳なら心臓手術で復活して120歳まで生きてくれるかもしれませんけど、レアですよね)
なぜ高齢期の医療費が突出するのか?
なぜか?
最期まであらゆる手を尽くさないといけないからです。家族に「先生、何とか助けてください」と言われたら医師は延命措置に最善を尽くすしかないのです。だから、患者の寿命に関係なく、いくらの費用がかかろうとも高度な医療技術を必死で施すのです。(もちろん例外もありますが全般的にという意味です)
でも、ちょっと待ってください。この延命措置は、誰を幸せにするためのものなのでしょうか?その延命措置によって一命を取りとめ、意識もなかったり朦朧とし、機械に繋がれ横たわって数日、数ヶ月、あるいは数年生きることは、その人にとって本当に幸せなのでしょうか?
個人的な話をすれば、数年前に祖母が末期がんで寝たきりになった時には家族で「発作がおきても痛みをとってもらって安らかに見送ってあげよう」という決断をしました。生前に曾祖母の介護をしていた祖母は、「自分が寝たきりになったら下手な延命はしないでくれ、痛い思いはしたくないし、同じ苦労を家族には絶対させたくない」と繰り返し言っていたのです。だから、我が家族は迷うことなくその決断を下すことができました。
本人の意志にもよりますが、患者が若い世代ならもちろん、重篤であってもその先の人生のために最善の延命措置をすべきです。なぜなら、その時さえ治療に耐え回復できれば、その後何十年もの長い人生が待っている可能性があるからです。
今医療現場で起こっていること
60歳で脳腫瘍が見つかった母
またまた個人的な話で恐縮ですが、私の母は60歳の昨年、重度の脳腫瘍(ステージ4)が見つかりました。一刻を争う事態と言われ、発見から数日で地方都市の大学病院で外科の腫瘍摘出手術をしていただき、今のところ後遺症もなく散歩や軽い家事ができるまでに回復しています。がんの標準治療では、その後放射線療法と抗がん剤の投与でがん細胞を完全に消す試みを行いますが、その治療は断念しました。
放射線の方は、元々母が20歳の頃別の疾病で大量の放射線治療を受けていたため蓄積された放射線量が多すぎてこれ以上の照射は危険という診断でした。また、脳腫瘍に対する抗がん剤は奏功率が低いこと、別の疾病の影響で体力が非常に弱っていましたので、免疫機能全体が影響を受ける抗がん剤は効果より副作用の方が強く、本人が苦しい治療を望まなかったためそれ以上の治療は受けないことになったのです。
緩和ケアを選択する時
そうなると「緩和ケア」を紹介されることになります。最初は、まだ日常生活を送れている人に緩和ケア病棟に定期通院しろなんて・・と思ったのですが、母と一緒に赴いてみて、それは決して「最期を迎える準備」という意味合いだけではなく、「自らが延命を望まないことを選択している」という意味合いがあるのだとわかりました。
緩和ケアでは、今後万が一、容態が急変したような時にどう対処するかも話し合われます。そこで「この患者は緩和ケアを受けており、高度な延命治療を望まない」ことを救急隊員にもしっかり伝達するように指導されるのです。(すべての医療機関でそうしているかは分かりません、地方都市の大学病院での話です)
なぜか?
その意思表示をしっかりしないと、医者は最善を尽くすしかなくなるからです。後で十分な延命措置をしなかったと医療訴訟になっては困るからです。この緩和ケアにおける対応は妥当性が高いと思いますし、今健康な人にとってもとても重要な示唆を与えてくれていると気づきました。
なにが「幸せな最期」なのか?
冷静な対処の必要性
釈迦に説法な話ですが、人は(現時点では)不老不死ではありません。誰しもが遅かれ早かれ必ず亡くなる時が来ます。
誰もがそうわかっているにも関わらず、日常的に目にするのは、目的が不明確な高度医療、先のない延命治療、回復の見込みがない中で何年も続く介護生活…。日本は世界的に見ても「健康寿命」と「平均寿命」に何年もの(女性は10年近くも)乖離がある珍しい国家です。
国民性や文化的な背景から、死生観や倫理観をオープンに話せないこと、いざという時の冷静な判断ができないことが原因だと考えられますが、その本人や家族だけでなく国家レベルの課題になってしまっている、この異常さに気づくべきです。
誰を幸せにする治療なのか、冷静になって判断する必要がありますし、もし、治療法の選択を迷った時は医師に聞いてみるのも良いと思います。(*医師会や医師個人の了承は得てないことですので、ご迷惑だったらお詫びの言葉もありませんが・・・)
「あくまで個人的な立場で、もし患者が自分の親だったとして、先生ならこの治療を選択しますか?」と。
自分や家族の終末期を早いうちに決めておく
例えば「親」や「配偶者」と「もしも」の時の話をされたことがありますか? 我が家では、自分の親とは親のもしもの時を、主人とはお互いのもしもの時のために、以下のことを話し合っています。
- 延命治療をする判断軸(例えば、脳のダメージで回復の見込みがない場合は延命しない、とか、意識が戻る可能性がある場合は延命を望むとか。)
- 終末期をどこで過ごしたいか(自宅か施設かや、自然が豊かな所とか。)
- 臓器提供を行うか(肺以外はしてくれてOKとか)
- 埋葬方法(海に散骨してほしいとか)
死生観を語ることは人間にとってタブーでも何でもないと思います。むしろ、自分の最期を自分で決めることができるのは文化的知性を持ち合わせた人間という生物の特権であるとさえ思います。
そして、いざという時に、冷静さを欠いてよく考えずに「なんとか助けてください!できるだけ延命してください!」なんて言ってしまうことのないようにしていくこと。それが、日本が抱える「医療費」「介護」の八方塞りの課題を融解できるのではないかと思うのです。
高齢期の過度な医療費を見直せば、7兆円は削減できるのでは?
日本の医療費は約40兆円です。そのうち、65歳以上の医療費がおよそ60%なので24兆円をベースに考えましょう。(それより若い世代は生きるためにいくらでも最善を尽くすという考え方にします)
この24兆円のうち、死生観と向き合い準備しておくことで、最期の3日にかけている医療費の3割をかけないとしたら、約7兆円が減らせる医療費になります。3割すべては無理だとしても、2割でも約5兆円です。
不妊治療に必要な医療費は多く見積もっても年間2兆円です。財源、十分にあると思いませんか?(*今回はそもそも削減しなきゃいけないという話は別にします)
現場の医師の声にも医療保険制度について問題視する声は多いです。
「日本の医療、問題ありすぎ、どこから手を付ける?」◆Vol.15-1|医療維新 - m3.comの医療コラム
おわりに
過激と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、本記事は実体験を踏まえた個人の考えとして書かせていただいています。もちろん事情は人それぞれなので全てのケースがこうあるべきとは思いません。
本来、医療費の問題は、高齢社会で健康寿命を延ばすためにどうすべきか、医療費の1/3を占める生活習慣病をどう食い止めるか、といったテーマも一緒に議論されることが望ましいですが(政府の対策としてはこのあたりに重点が置かれています)、今回は「いのちのコスト」をどう捉えるかという観点で、いのちの終わりの医療費をいのちの始まりの医療費に変えていこう、という主旨で書かせていただきました。
また、近年議論されている花粉症薬などスイッチOTCが可能な薬剤については保険適用外とする案も提案されています。花粉症薬の場合は年間約600億円が削減、その他、病院で処方される市販品と同じ有効成分をもつ医薬品の総額は年間5000億円以上と試算されています。
財源には限りがありますが、活かして使うことでその価値は何倍にも広がります。また、不妊治療に公費を使うことはいわば「投資」です。消費でも浪費でもありません。
「高齢化で医療費はかかる一方だ、これ以上医療費は増やせない」などと短絡的に判断せず、「より良い医療費の使い方」を模索する方向に持っていくことが必要だと思います。また、それを待たずしても、私達が個人ですぐにできることもあります。
いのちとどう向き合うかを考える習慣が伝染して、この記事に直接触れることのない世代にも広がっていくといいなという願いを込めて。
シリーズ第1回、第3回の記事はこちらです。あくまで個人的な見解ですので、違うお考えの方もいらっしゃることは想定した内容ではありますが、はてなブックマークやSNSでの共有をしていただけると励みになります。 第3回は海外の事情を交えて日本の不妊治療の課題を見ていきたいと思います。